斎藤茂男『われの言葉は火と狂い』(築地書店、1990年)より
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茂子さんの人権を踏みにじり、家族や証人たちの人生にも多大な被害を
与えた直接の責任者はいったいだれなのか。供述調書や村上報告書など
から判断すると、直接かかわったのは徳島地検・田辺光夫検事正、湯川
和夫次席検事、村上善美・藤掛義孝両検事、丹羽利幸検察事務官らで
あり、さらに西野証人らの"偽証告白"をひっくりかえさせるために
活躍した昭和三十四年五月当時の徳島地検・大越正蔵検事正、丸尾芳郎
検事、高松高検の南舘陸奥夫検事らの名前も加えられるべきだろう。
そして、さらに見逃せないのは"犯罪"といってよいほどのでたらめきわまる
判決を下した裁判官たちだ。
再審開始決定と無罪判決を下した裁判官たちは、"茂子有罪"の判決を
下した同僚裁判官たちの誤りをきびしく徹底的に批判し、ようやく裁判
の威信を取り戻す役割を果たしたが、
(PP.203-204)
"茂子有罪"の判決を下した裁判官たちは、この西野証言をどう評価して
いたのだろうか。検察庁で西野少年がこの重要な供述をしたあと間もなく、
この刺身庖丁の大捜索がはじまった。五日間にわたって両国橋の上流、下流
それぞれ約二〇㍍の範囲にわたって、潜水夫や漁業用の用具を動員して
川ざらいしたのだ。その結果、パチンコ玉数百個などたくさんの金物は
出てきたけれども、庖丁はついに見つからなかった。
ところが、"茂子有罪"とした二審の裁判官は「刺身庖丁が投棄の場所に
存在するとしても発見の能否は別個の問題で、右のごとく発見できなかった
といって直ちに投棄の事実を否定し得ない」と片付けていた。
これはシロウトがみてもおかしな論理だ。つまり、川ざらいして庖丁が
見つからなかったという事実は、庖丁投棄そのものを否定する判断材料
にはなるけれども、反対に庖丁投棄を認める材料にはならない。それを
あえて「投棄したことはまちがいない」という判断材料にするためには、
なぜそう言えるかという、裏付けが必要だ。ところが判決はそんなこと
にはお構いなく、強引に、庖丁が出てこなかった事実を葬り去り、庖丁を
投棄したという西野証言を生かしていたのである。この点を再審開始
決定を下した裁判官はどう判断したのだろうか。裁判官の文章だから、
多少固苦しい表現だが、論旨は明快である。そのまま引用してみよう。
右のような事実の認定方法は、供述証拠と客観証拠との関係を逆
転させ、採証法則上の初歩的原則を無視するものであって到底看過
することができない。
(中略:ウエブサイト運営者による)
もし仮にその証言が特に信用し得る根拠があるのであれば、「不発
見」という客観的事実と、「兇器の存在」という仮説との両立し難い
矛盾を合理的に説明するところがなければならない。合理的に説明
し得なければ、そうした事実は認定しないのが論理的法則、経験則に
従うべき事実認定の鉄則である。
第一、二審判決説示は、西野証言の信憑性を過信する余り、事実
認定の基本原則を軽視した疑いが濃厚である。
裁判官が裁判官に対して、「これは事実認定の初歩的なルールを無視した
ひどいやり方ですよ」と断言しているわけだ。
(PP.205-207)
私はかつて問題の二審判決を言い渡した裁判官を自宅に訪ねたことがある。
支局の記者ではなく、東京からわざわざ来た本社の記者ということが影響
したのか、立派な邸宅の応接間へ上げてくれた。その地方では有名な
旧家で、兄弟が長く県知事をつとめるなど、地方のもっとも有力な階層の
出身者である。人当たりがよく、愛想のよい応対ぶりは意外なほどだった。
だが意外だったのはそれだけでなく、判決の疑問点を問いただしていくと、
「いやあ、あの事件ほどむつかしい、よくわからない事件はなかった。
最後の最後まで判決に迷ったのをよく覚えていますよ」
と、しきりに難事件だったことを強調する。それならばなぜ、あのような
判決を下したのか、私は話を聞いているうちに、どうやら確信のないまま
なかばサイコロを振る感じで、検察側のほうへ振ったのではないか、
そうしておけばまず安全だろうという判断放棄の状態で─そんな印象を
抱いた。
さして困惑したようすもなく、かつて体験した事例のひとつを思い出として
語っていく調子の話を聞きながら、この人にはきっと、山村の集落で
育った西野・阿部少年らのおびえや不安に共感を寄せることがむつかし
かったろうし、まして殺人犯にされて刑務所に閉じ込められている人間
の苦悶など想像したこともないのだろうな、とその屈託のなさにとまどい
さえ覚えたものだ。
(P.208)
この一節でもそうだが、茂子有罪とした裁判はいたるところで「・・・
・・・とも考えられ」「・・・・・・とも解されなくもない」などを乱発している。
どっちにもとれるあいまいな言い回しをする場合に使う言葉なのに、
ひとりの人間の一生を左右する重大な判断を下すに当たって、確信の
ないこのような含みのある言い回しで判決を書いていたのである。
これは確かな証拠が何もないのに、むりに結論にもち込もうとするからで
あって、裁判官は虚心に真実を発見しようと努力するのではなく、はじめ
から検察官の主張をうのみにしてかかっていたとしか言いようがない。
証拠がないのに、推論、推定、想像を積み重ね、あいまいな言い回しで
ごまかしながら、結局、断定へとつき進んでしまう。
(P.221)
さて、一、二審判決を克明に検討したうえ、西野・阿部両証言の信憑性に
ついて「信用できない」と結論づけ、再審開始決定を下した裁判官は、
その最後のくだりで証拠のなかには茂子犯人を指すものがないばかりか、
逆に外部犯人の犯行を指し示すものがあるとして十一項目をあげている。
そのうえで、「茂子を亀三郎殺害の真犯人と断定した一、二審の事実認定は
維持できなくなったというほかはない」と結論づけている。
しかも、このような判断をするしかない証拠は、じつはすでに一、二審の
段階で記録のなかに数多く含まれていたことを指摘したうえ、有罪判決を
下していた裁判官たちの事実認定のやり方をつぎのように厳しく批判した。
(中略:ウエブサイト運営者による)
以上よりにして、茂子を亀三郎殺害の真犯人と断定した第一、二審の
事実認定は、新旧証拠の総合的評価を終えた今、もはや維持し難い
ものになったというほかはない。これら茂子有罪の認定を阻害する
証拠は、単に新証拠の中に発見しうるだけでなく、旧証拠、すなわ
ち第一、二審が事実認定の用に供することができた筈の確定記録の
中にも数多く含まれていたものであることは詳細に見て来たとおり
である。
当裁判所は、このことが数ある再審請求事件の中でも、本件の一つの
特徴をなすものと考えている。
(中略:ウエブサイト運営者による)
くだいて言えば、一、二審の有罪判決が、やれ"迷信的性格によるのかも
しれない"なとど、客観的な裏付けがない不合理な割り切り方をしている
のは、裁判官の心証("有罪だな"という受けとめ方)そのものが、
いかにあやふやで、不確かなものだったのかを物語っているではないか
─ というわけだ。そして、有罪の方向へもっていこうとする苦悶が滲み
出ている ─ と鋭く指摘したのだった。
私はこの一節を読みながら、前に紹介した二審裁判官訪問の日を思い
出した。あの屈託のない表情で「むつかしい事件でしたなあ」と話して
いた声が甦ってきた。人間の一生を決定的に左右する重大な判断を、
こんないい加減なやり方で下しておきながら、あっけらかんとしていた
人の声を、である。
(PP.223-224)
国家犯罪の"犯人"たちの罪業はこうしていくらかは明るみに出された。
だが、検察官にせよ、裁判官にせよ、だれひとりみずから責任をとろうと
したひとはいなかった。
(P.231)
(赤字強調ウエブサイト運営者)
しかし、これはこの事件だけの例外ではなく、いまでも起こりうるところが
恐ろしい。現職裁判官が語り合う座談会(『ジュリスト』530号「刑事裁判の
現状と課題」を読んでいたら、こんな発言があった。これは良心的な
裁判官だからこそ言える言葉だなと思いながら読んだ。発言は「誤判を
根絶するにはどうしたらよいか」という発問に対しての答えである。
A 裁判官 基本的には事実認定の訓練をして、
間違いのない認定ができるだけの実力を裁判官が付けなければなら
ないということだろと思います。捜査が精密になればなるほど、
捜査のどこに欠点があるのかを見抜かなければならないという意味
では、裁判官の目の確かさが要求されていると思うわけです。以前
は、再審事件は戦後間もないころの事件ばかりかと考えていました
が、どうも最近でも誤判があるということに、われわれは十分反省
すべきであろうと思います。事実認定についてはいくら訓練をして
もしすぎるということはありません。
B 裁判官 私ども裁判官も、事実認定に関し
ては、特別の知識や技術を持つ専門家ではありません。言い換えま
すと、事実認定そのものに関しては、社会における一般の人々と変
わりがありません。われわれが専門家であるのは、それについての
法的な制約、こういう証拠に基づいては認定できるけれども、こう
いう証拠に基づく認定はできないとか、証拠能力の問題であるとか、
そういう意味の専門家であるだけなのです。むしろ、ますます複雑
化し技術的に高度化していく現在の社会においては、社会での出来
事を理解するうえで常に自分たちで勉強をしなければならなないと思
います。結局、事実認定にあたっては、「私がこう思ったから、こう
だ」などという思い上がりがあってはならないことはいうまでもな
く、具体的な証拠に基づき、こつこつと判例を積み重ね、合理的な
結論を導き出すことが基本だということです。
B 裁判官がいうように、裁判官とはいえけっして事実認定の専門家では
ないのだ、という姿勢こそが真実に接近する基本だと私も思う。
徳島ラジオ商殺しの場合、もし一審、二審の裁判官にそういう視点が
あったら、けっしてこんな大きな犠牲を生まないで済んだはずだ。やはり、
問題は「人間」に帰結するわけだが、・・・・・・。
(PP.268-270)
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